| 大国の独善主義 |
| 時間はすでに午後3時近かった。平原の南の縁で、赤い砂層の低い崖があるところで昼食にした。その崖の幅は2キロほどで高さは20メートルくらいあり、西側の上部には礫をふくむ白色の粘土質の砂層が重なっていた。 昼食は、朝もらったハビラガ(リブ)を煮ておかずにした。私がナイフを上手に使って肉をそぎながら食べるようすを見て、 トゥンバイヤーは、金属鉱床探査のためにロシアの地質学者と共同で調査をすることが多かったという。その時にロシア人は、ゲルの人から羊を買うことをせずに野生動物を銃で殺して食料とした。 野生動物を殺すことは、モンゴル人にとっては苦痛であるにもかかわらず、それをまったく理解しないという。また、彼らは私のようにモンゴル人と同じに床に座ることは絶対にせず、椅子やテーブルを用意させて食事をするという。そして、恐竜化石をはじめ研究資料については彼らが独占したり、自国に持っていって返ってこない場合が多かったという。 モンゴル人とロシア人の生活習慣の違いはたいへんに大きい。それにもかかわらず、ロシア人は絶対にモンゴル人に合わせることはしない。東洋人と西洋人の考え方や習慣、それに西洋人のもつ独善主義・覇権主義・植民地主義の現れとして、モンゴルでのロシアの調査隊の行動は象徴的なひとつの例だと私は思った。 モンゴルの人々は、中国人に対しても西洋人と同様の、いやそれ以上の嫌悪感をもっている。中国人とモンゴル人の生活様式は日本人にとって一見似ているように思われがちだが、農耕の民の中国人と遊牧の民のモンゴル人では生活様式から考え方までまったく正反対なのである。 それに中国は内モンゴルなどモンゴル民族の地を奪い、一時期モンゴルを支配していた国でもある。さらに現在では、モンゴルが国を開いたために中国人の不法侵入者が増加しているともという。 モンゴル高原が中国(当時の清朝)の支配下に入ったのは17世紀後半であったが、中国人が本格的にこの地に入ってきたのは、18世紀になってからであるといわれる。そのころ、帝政ロシアがモンゴル高原の北側まで侵入していて、1727年に清朝とロシアで通商条約がかわされた。それによって、清国の商人がモンゴル高原を舞台に活動を活発にはじめた。それまで貨幣を知らなかった純朴な遊牧の民は、その後の流通経済のしくみの中で多くが破産し奴隷となっていった。 1911年の辛亥革命によって清王朝が滅んだ時に、モンゴル人は帝政ロシアに頼って独立を宣言した。しかし、内モンゴルをも含めた「大モンゴル国」の独立は、ロシアと中国という大国のかけひきの中で黙殺されて、結局外モンゴルに限って中国の宗主権下での自治が認められたにすぎなかった。 その数年後、頼りにしていた帝政ロシアが革命によって倒れ、そのどさくさの中、中国が再びモンゴルの統治権を手に入れようとした。モンゴル人は自らの国を中国人に支配されることを嫌い、それから逃れるために北のソ連に援助を求めた。そして、1924年にモンゴル人民共和国という社会主義国家が誕生した。独立宣言から国家誕生までには多くの血が流され、国家誕生後もそれはつづいた。 |