静川層群調査記

掲載日:2014年8月11日
最終更新日:2014年9月11日

柴 正博

静川層群調査記

ぼしゅうちゅう 146号(2014年6月5日発行) 

はじめに

 私は、2012年と2013年に、山梨県南巨摩群身延町中富地区に分布する、いわゆる静川層群と呼ばれていた後期中新世〜鮮新世の地層の層序と貝化石と、有孔虫化石の生層序に関する2つの論文を発表した(柴ほか,2012,2013)。この2つの論文の中で、私は静川層群を後期中新世の富士川層群と鮮新世の曙層群に区分し、それらが不整合の関係にあることを明らかにした。

 そして、この続編として、遅沢砂岩部層の貝化石群集についての論文(柴ほか,2014)を発表し、現在、曙層群の堆積過程と、この地域の富士川層群と曙層群の変形構造の形成についての論文を作成中である。ここでは、これまで私と駿河湾団研で取り組んできた、この地域の地質調査の経緯と成果について記すことにする。

屏風岩の対岸の山地

屏風岩 国道52号線で山梨県の身延をすぎて、新早川橋を渡って少し行くと、右手にコンビニのローソンがある。この富士川右岸(西側の岸)が、私たちの調査のいつもの集合場所である。このローソンの駐車場からは、富士川の対岸(東側の岸)に屏風岩が見える。この屏風岩は、大きな岩盤の層が屏風のように重った雄々とした川崖で、これは西八代層群最上部の屏風岩凝灰岩層の層理がその形をつくりだしているものである。

 この屏風岩凝灰岩層より上位、西側のこの場所は、山梨県南巨摩郡、数年前の町村合併前は中富町だったところで、現在は身延町中富地区と呼ばれる。この中富地区には、富士川と早川に挟まれ、西側にそそり立つ巨摩山塊の手前にそれほど標高の高くない山地があり、この山地に分布する地層を、1955年に東京大学地震研究所の大塚彌之助氏が静川層群と命名した。

静川層群とは

 静川層群は、身延町中富地区に主に分布する凝灰質な砂岩や泥岩と礫岩からなる、新第三紀後期の後期中新世〜鮮新世(今から約1000万年前〜約250万年前)に堆積した地層である。大塚(1934)はここから貝化石を報告し、大塚(1955)では静川層群を定義し、静川層群の曙半凝固礫岩と下位の西八代層群とが大きな不整合(手打沢不整合)で重なることを報告した。大塚(1955)は、静川層群と西八代層群をそれぞれ鮮新統と中新統と考えていたことから、手打沢不整合を中新世末から鮮新世初期に掛川地域でみられる大井川褶曲の造構運動のひとつの証拠とした。

 その後、秋山(1957)がこの地域を中心にその南側の旧下部町と旧身延町の静川層群相当層の層序を報告し、その1年後に松田(1958)がほぼ同じ地域の層序とその地域の褶曲形成についての議論を発表した。松田(1958)によると、静川層群の地層の厚さと褶曲の関係から、静川層群の褶曲は、大塚(1955)の言う褶曲時階に形成されたものではなく、堆積時に形成されたという。また、松田(1961)は、松田(1958)の静川層群の層序を、静岡県までおよぶ富士川流域(富士川谷)全体に拡張して、それらを富士川層群と呼び、その層序と構造をまとめた。

 このように、この地域の静川層群の層序は、富士川谷全体の富士川層群の層序が模式的に見られるところであり、またそれらが狭い範囲に凝集している。そのため、富士川層群の層序を明らかにする上に、とても重要な地域である。そして、この地域の層序と地質構造とあわせてその堆積過程を明らかすることは、その下流にあたる静岡市地域の同時代の地層を長年調査してきた私にとって、非常に重要なことであった。

 この静川層群が分布する中富地区は、その南側の富士川中流域と比べると山も低く、調査にそれほどの危険をともなわない。そのことから、これまでも多くの研究者が調査を行ってきたし、地質調査初心者の学生にとっても、この地域は調査演習のフィールドとして最適だった。

静川層群との出会い

 静川層群との出会いは、私が大学1年生だった、1973年3月のころだと思う。そのころ日大の学生が組織していた富士川団研があり、その春の調査に、先輩の三島さんに勧められて参加した。団研の宿舎は飯富の旅館で、ちょうどそこは初めに紹介したローソンの西側の旧道沿いにあった。

 その富士川団研の春の調査では、成田 賢くんや村木孝二くんなど私と同学年の学生とも知り合うことができた。富士川団研は学生が組織する団研で、当時活動も活発で、感化されることも多かった。その後も富士川団研の調査や巡検にはよく参加し、調査やコンパなどで熱く議論し楽しい時をすごした。しかし、1973年以後、富士川団研の主な調査地域は、中富地区からその南側の旧下部町と旧身延町、さらにその南の南部町へと移っていったために、私は学生時代に中富地区の静川層群を巡検以外でほとんど見ることがなかった。

 私は、1974年から始まった地団研静岡支部の駿河湾団研に参加して、現在静岡市に含まれる旧庵原郡地域に分布する庵原層群から調査を行い、その後は、その西側の浜石岳地域と興津川地域に分布する浜石岳層群、さらに西側の静岡市街北側の山地に分布する静岡層群、そして有度丘陵の第四系と調査を行ってきた。

 ちょうど、1997年8月に静岡層群の調査を終了し、駿河湾団研50回記念のシンポジウムを静岡市で行った。これには多くの団研OBや他の団研の方々も参加していただき、南部フォッサマグナ地域の地質や地質構造について熱い議論を行った。また、これにはそのころすでに解散していた富士川団研のメンバーも何名か参加された。
 そのころすでに、静岡市地域に相当する富士川流域南部の富士川層群相当層の地質図を完成させた私にとって、その富士川層群のもととなった静川層群をきちんと知り、その層序とこれまでの南部の層序を対比する必要があった。そのころの駿河湾団研は、学生も多く、フィールド調査のレベルも相当高かったこともあり、1988年の夏の調査地域を身延町中富地区に決定した。

第1次調査

 1988年の夏の調査の事前調査として、その年の正月休みに調査地域の真ん中にあたる夜子沢に調査に入った。しかし、その時は大雪に見舞われ、十分な調査ができなかった。夏の調査は、飯富の富士川を隔てて対岸にある峡南勤労者センターを宿舎にして、8月と9月に1週間ずつ行った。この2回の団研調査で、調査地域のほぼ全域が調査できた。この地域の調査結果についてのまとめと、早川以南の地質調査をする必要があったが、それらについては当時3年生だった山田 学くんが、次の年に卒業研究のテーマとすることになった。

 団研では、次の年(1989年)の夏に、山梨県の静岡県境側にあたる万沢地域の身延層相当層の調査を行った。この時、山田くんが富士川本流で溺れて亡くなるという不幸な事故が起こった。そして、1990年夏に山田くんの追悼をかねて、山田くんの卒研地域の調査を団研の調査として峡南勤労者センターを宿舎にして行った。調査には多くの団研OBも駆けつけてくれた。

 それ以後、私は中富地区の調査のまとめを行い論文にする予定だったが、それまでの15年間に駿河湾団研で調査してきた静岡県の富士川谷南部地域の地質についてのまとめを行った(柴,1991)ことから、中富地区のまとめができなかった。そして、1990年以降、団研に参加する学生が減少したことや、それによって山地で地質調査できる学生の養成ができなかったことなどから、駿河湾団研の調査地域は富士川流域から離れ、御前崎-掛川地域に移った。そして、その15年後の2006年5月に再び夜子沢に駿河湾団研として地質調査に入るまで、中富地区の地質図にはルートマップのデー2008年夏の調査(早川橋下)タが追加されることはなかった。

第2次調査

 2006年からの中富地区での駿河湾団研の第2次調査は、山梨県出身の廣瀬祐市くんがいなくては始まらなかった。1990年から始まった御前崎-掛川地域の駿河湾団研の調査は、2006年までに、天竜川東岸の磐田原台地までほぼ終了していた。山梨県のぶどう農家の息子である廣瀬くんが、卒業研究の地域を地元山梨県で行う希望があり、夏の調査地域を中富地区の再検討として始めた。

 団研での調査は2006年から2009年まで行い、廣瀬くんは卒業研究と山梨大学大学院の修士研究で2006年から2008年まで調査を行った。これと同時に団研の冬の調査は、有度丘陵の根古屋層の再調査を始めた。この冬と夏での調査地域の組み合わせは、ちょうど1988年の第1次調査の時と同じであった。

貝化石の発見

早川橋下流の全面露頭
 第2次調査は、2006年5月から身延町釜額の芙蓉荘を宿舎として行った。芙蓉荘の赤池勝夫夫妻には大変お世話になった。2007年の調査では、手打沢の上流の北沢川の河床で、曙礫岩層の下部に挟在する砂層から貝化石を発見した。従来の論文や第1次調査の記録では、単に貝化石片が散在と記載されていただけだったが、この調査では保存のよい貝化石を発見できた。そこで、富士幸祐くんの卒業研究として、それらをきちんと採集して記載することにした。貝化石の同定には、掛川層群の研究で親交のある静岡大学の延原尊美氏に協力を得た。

 2008年には早川橋の下流の早川河床の調査で、今まで見られなかった早川橋砂岩泥岩互層などの地層が500m以上にわたって連続する露頭を発見した。おそらく、数年前の大水により河床に新たな流路が掘削されて出現したものと思われた。その露頭の観察と記載によって、早川橋砂岩泥岩互層中に多量の貝化石を含んだ地層を発見できた。

 この層準ではそれまで貝化石の報告はなく、また産出する種類も、従来から知られているその上位の遅沢砂岩部層のAmussiopecten iitomiensisGlycymeris osozawaensisで代表される貝化石群集とはまったく異なっていた。このことから、安田美輪さんに曙礫岩層の下部と新たに発見した早川橋砂岩泥岩互層と、遅沢砂岩層の各貝化石群集の違いを明確にすることを、卒業研究のテーマにして行ってもらった。

Megacardita oyamai 安田さんが明らかにした早川橋砂岩泥岩互層からの貝化石の大きな特徴は、これまで宮崎層群からしか知られていなかったMegacardita oyamaiというMegacardita pandaの祖先型の貝化石が多産し、他にGlycymeris osozawaensisではない中期〜後期中新世から報告されているGlycymeris属が多種含まれていることだった。
また、篠崎泰輔くんには静川層群の有孔虫化石を研究してもらった。なお、彼は修士研究でも引き続き静川層群の有孔虫化石を研究した。

川平泥岩層の貝化石


 2009年には、曙礫岩層の下位としていた川平泥岩層の夜子沢に分布する砂層から、高木克将くんがA. praesignisを含む貝化石群集を発見した。私は、それまで川平泥岩層は曙礫岩層の下位の地層、すなわち静川層群の中新統の部分の最上部層と考えていた。しかし、この発見で私は、川平泥岩層が曙礫岩層の下部に含まれるものであるということと、曙礫岩層下部がファンデルタのトウセット(前置部下部:デルタ斜面の麓部)およびプロデルタ(デルタ斜面周辺前面部)で堆積したことを強く認識させられた。

Amussiopecten praesignis 静川層群の第2次調査では、私たちは同時に、ファンデルタの堆積層からなる有度丘陵の調査をしていた。ファンデルタのデルタ斜面(前置部)下部からその前面(沖合)にかけては礫層と泥層という粒度のまったく異なる対照的な堆積物の地層が頻繁に互層する。静川層群の調査で私は、川平泥岩層の岩相が、深海扇状地で形成され地層であると長い間信じていた。しかし、Amussiopecten praesignisという掛川層群で見慣れた鮮新世の化石の発見と川平泥岩層の岩相の再認識により、私はこの地層が曙礫岩層の下部層に相当するという考え方に転向した。

 篠崎くんが同時に研究していた有孔虫化石のデータからも、川平泥岩層が鮮新世であり、下部浅海帯(水深約50〜200m)の深さの堆積物であることが明らかになり、ファンデルタの堆積物であることを確信した。

静川層群の再定義

 静川層群の最上部層である曙礫岩層は、礫岩層が主体であるが、それらは下位から、泥岩層と塊状の礫岩層の互層からなる下部層(川平層)と、主に成層した礫岩層からなる中部層(中山層)、巨礫からなり泥岩層が挟在する礫岩層からなる上部層(平須層)に区分できる。これらの地層は、ファンデルタによって形成した地層で、川平層はファンデルタのトウセットおよびプロデルタで堆積したものであり、中山層はフォアセット(前置部:デルタ斜面部)、平須層はトップセット(頂置部:陸上河川部)に堆積したものである。そして、曙礫岩層の堆積した時代は、鮮新世である。
曙層群中山層の礫岩層
 それに対して、その下位の静川層群の地層は、泥岩層と砂岩泥岩互層を主体とし、それに安山岩質の凝灰角礫岩層が挟在する岩相で、これらは海底扇状地に堆積したものと考えられる。また、含まれる有孔虫化石から水深が漸深海帯(水深約 2,000〜3,000 m)の堆積物と推定される。そして、富士川層群の堆積した時代は、有孔虫化石から後期中新世と考えられる。

 これらのことから、曙礫岩層とその下位の静川層群の地層では、堆積した時代や環境も異なり、堆積システムも大きく異なることが明らかになった。すなわち、曙礫岩層は鮮新世にファンデルタシイスムによって形成した地層で、その下位の静川層群の地層は後期中新世に深海海底扇状地システムによって形成された地層であり、これらをひとつの層群とするべきではない。そこで、私は、曙礫岩層を曙層群として、その下位の静川層群の地層を富士川層群として、静川層群を再定義した。

 整理すると、後期中新世の深海海底扇状地システムによって形成された富士川層群は、下位よりしもべ層の原泥岩部層、身延層の三ッ石凝灰角礫岩部層、飯富層の早川橋砂岩泥岩互層部層、烏森山凝灰角礫岩部層、遅沢砂岩部層からなる。そして、鮮新世のファンデルタによって形成された曙層群は下位よりトウセットからなる川平層、フォアセットからなる中山層、トップセットからなる平須層からなる。これが、柴ほか(2013)で示した、従来静川層群といわれていた地層を再定義した層序である。

3つの貝化石群集
 川平泥岩層でのAmussiopecten praesignisの発見によって、高木くんにはこれも含めて安田さんの研究を引き継ぎ、3つの層準の化石群集について卒業研究でまとめてもらった。

2009年夏の調査 それら富士くん、安田さん、高木くんの3名の研究の成果として、@富士川層群飯富層の早川橋砂岩泥岩互層からはMegacardita oyamaiを主体とする貝化石群集が産出し、この貝化石群集はその子孫型であるM. pandaを含む富士川層群飯富層の遅沢砂岩層の貝化石群集より古い時代のものである、A曙層群の川平層のA. praesignisを含む貝化石群集は手打沢の曙層群下部層のものとほぼ同様の群集であり、A. iitomiensisで代表される富士川層群飯富層の遅沢砂岩層より新しく鮮新世と考えられる、ということがわかった。

 従来、静川層群では遅沢砂岩層から Amussiopecten iitomiensisで代表される貝化石群集のみが知られていたが、私たちは遅沢砂岩層も含めて3つの層準から、それぞれ異なった時代に形成された貝化石群集を発見し、またそれらの層序も明確にした。

転石からの大発見

 さらにその後、私たちは夜子沢で、上述の3つの層準より下位の層準から新たな時代の貝化石を発見した。それは、2009年12月に、夜子沢で川平層の貝化石を採集したときのことである。

 夜子沢の河床には、以前から大きな石灰岩の転石があったが、私はそれにほとんど気を留めていなかった。しかし、その時は、少し気になり注目してみたところ、この転石の表面にはAmussiopectenと思われる貝殻がたくさん重なるように密集していた。Amussiopectenであれば、A. iitomiensisを含む遅沢砂岩層が上流のどこかに分布するのかと思ったが、その貝化石をよく見ると、Amussiopecten iitomiensisではないように思えた。石灰岩はかたくて貝化石がきれいに取れなかったので貝化石の写真をとり、その写真をもとに研究室の文献で調べてみた。そうすると、それはAmussiopecten iitomiensisの祖先型のAmussiopecten akiyamaeである可能性が浮上した。

 第2次調査で作成した地質図では、夜子沢の上流には遅沢砂岩層がどこにも分布しないことが明らかだった。したがって、この転石のもととなった石灰岩の層準がどこにあるかが、気になった。第1次調査のルートマップを再度めくってみると、なんと私自身が1988年1月の最初の調査の時に、忘れもしない大雪の中の調査で、この化石の入った石灰岩の礫が三ッ石凝灰角礫岩層に含まれているということを記載していた。私はこの調査で石灰岩の転石の分布の特徴について記載した覚えはあったが、石灰岩の礫が三ッ石凝灰角礫岩層に含まれていたことついて記載したことを、まったく忘れていた。

三ッ石凝灰角礫岩層の貝化石

 このことを確かめるために、2011年度の卒研生数人と2011年7月10日に、石灰岩の転石が分布する夜子沢の南側の沢を調査した。沢を登りながら、化石を含む転石を採集し、その石灰岩が含まれる地層の露頭を探した。沢には、意外にも保存のよい貝化石を含む石灰岩の転石が多くあり、それらを拾いながら沢の奥へ入っていった。三ッ石凝灰角礫岩層の凝灰岩や泥岩層が最南端まで続き、最後は滝になっていてそれより上には登れなかった。滝の上部に大きな礫が含まれていたが、それを以前の私は遠目に見て石灰岩の礫としたのかもしれなかった。しかし、滝を登ってそれを確認することもできなかった。

 諦めかけて帰ろうとしたとき、学生の中村光宏くんが、滝の西側の沢の崖を登りはじめ、頂上付近で石灰岩の露頭を発見した。彼の発見の雄叫びを聞いて、急な崖を登った私たちは、石灰岩層の露頭を発見した。その石灰岩の表面には、Amussiopecten akiyamaeの殻が多量にあり、それを見て感動した。石灰岩の地層は、泥岩中に南北方向に突き出るようにして挟在し、その厚さは2mほどで、上位に貝化石を多量に含む凝灰岩層に移りかわっていた。
Amussiopecten akiyamae
 この調査の結果、この石灰岩は礫ではなく、三ッ石凝灰角礫岩層の層準に挟在する地層であることがわかった。また、それに含まれる貝化石には、Amussiopecten akiyamaeChlamys miurensisが多量に含まれ、この貝化石群集は、これまでに発見された早川橋砂岩泥岩互層と遅沢砂岩層、曙礫岩層下部の3つの群集とは異なり、それはより下位の層準にあるということが明らかになった。この石灰岩の貝化石については、その露頭を発見した中村くんが卒業研究として化石をクリーニングして記載し、まとめた。

 この三ッ石凝灰角礫岩層の貝化石群集も含めた富士川層群と曙層群にみられる4つの化石群集について、柴ほか(2013)で詳細を示した。

静川層群の有孔虫化石

 静川層群の有孔虫化石の研究は、Ujiie and Muraki(1976)に始まった。私は、卒業研究では第一鹿島海山の石灰岩とそれに含まれる化石をテーマにして、実際の研究は国立科学博物館の桑野幸夫先生の研究室で行った。卒業研究のために国立科学博物館の新宿分館に行くと、桑野先生の同室の氏家 宏先生のところに富士川団研の村木くんがきていた。彼は、卒業研究で静川層群の層序と浮遊性有孔虫化石の研究を行っていた。Ujiie and Muraki(1976)の論文は、その時の村木くんの卒業研究を氏家先生がまとめたものである。

 その後、静川層群の浮遊性有孔虫化石による年代論が千地・紺田(1978)や狩野ほか(1985)、尾田ほか(1987)により提出され、狩野ほか(1985)とAkimoto(1991)によって底生有孔虫化石による堆積環境の推定が行われた。

 氏家先生は、Sphaeroidinela dehiscens immaturaの初出現を鮮新世の基底としていたので、相良層群中に鮮新世の基底が設けられ、それと同様に静川層群でも原泥岩層中部にその基底が設けられた。氏家先生の浮遊性有孔虫による生層序に対して、尾田ほか(1987)では、Oda(1977)の生層序帯に対比させて、彼らの原層(私たちの層序の原泥岩部層)をGlobigerina nepenthes / Globorotalia siakensis帯からGloboquadrina dehiscens帯に、彼らの飯富層(私たちの早川橋砂岩泥岩互層部層を含む三ッ石凝灰角礫岩部層から烏森山凝灰角礫岩部層までの層準)をG. dehiscens帯からPulleniatina primalis / Globigerina nepenthes帯に、曙層(私たちの遅沢砂岩部層付近から上位、曙層群も含む)をP. primalis / G. nepenthes帯からGloborotalia tosaensis帯とした。すなわち、尾田ほか(1987)によれば、鮮新世の基底は彼らの曙層の基底とした。

有孔虫化石の研究

 静川層群の有孔虫化石については、団研と廣瀬くんがサンプリングしたものを篠崎くんが卒業研究と修士研究でまとめた。彼の研究では、早川河床沿いのセクションと夜子沢に沿ったセクションにおいて有孔虫化石を検討し、浮遊性種からその地質時代を、底生種からその堆積環境を推定した。この結果については、柴ほか(2012)で報告したが、それによれば以下のようになる。

 しもべ層原泥岩部層にはGloborotalia miozeaGlobigerina nepenthesが共存することから、Blow(1969)のN14帯に相当し、その時代は後期中新世初期となる。身延層三ッ石凝灰角礫岩部層はGloborotalia merotumidaNeogloboquadrina acostaensisと、中緯度地域ではN16帯中で消滅するとされるG. dehiscensが共存することからN16帯(後期中新世前期)に、飯富層の早川橋砂岩泥岩互層部層はG. dehiscensが出現せず、その上部層準からN17帯から初出現するGloborotalia plesiotumidaが出現することなどからN16帯〜N18帯(後期中新世前期〜後期)に相当する。また、曙層群の川平層はG. nepenthesGloborotalia crassaformisが共存することからN19帯(前期鮮新世)に、中山層はG. tosaensisが産出したことからN21帯〜N22帯(後期鮮新世の〜前期更新世)に相当する。

 なお、富士川層群の底生有孔虫化石群集はStilostomella lepidulaが卓越することから下部漸深海帯で堆積し、曙層群ではAmmonia ketienziensisAmmonia takanabensisなどの浅海性タクサが卓越して産することから上部漸深海帯〜外部浅海帯で堆積したと推定した。

貝化石群集の系統

 上述した結果から、静川層群の地質時代、すなわち中富地区に分布する富士川層群は後期中新世に堆積した地層で、曙層群は鮮新世に堆積した地層ということが明らかになった。また、貝化石の産出する4つの層準、すなわちA. akiyamaeが産する富士川層群身延層三ッ石凝灰角礫岩部層はN16帯(後期中新世前期)に、M. oyamaiが産する飯富層早川橋砂岩泥岩互層部層はN16帯〜N17帯(後期中新世前期〜後期)に、A. iitomiensisおよびM. pandaが産する飯富層遅沢砂岩部層はN17帯〜N18帯(後期中新世後期)に、A. praesignisが産する曙層群川平層はN19帯(前期鮮新世)に堆積したと考えられる。

 Amussiopecten属で見ると、下位から上位にかけての層準に、身延層ではA. akiyamaeが、飯富層ではA. iitomiensisが、曙層群の川平層ではA. praesignisが産出し、祖先型のA. akiyamaeからA. iitomiensisを経て、子孫型のA. praesignisに至る系統が時代の経過とともに産出することが確かめられた。

 また、Megacardita属では、M. pandaの祖先型とされるM. oyamaiが飯富層下部から産し、M. pandaは飯富層上部と曙層群川平層から産した。このように、これまで産出層準が後期中新世から鮮新世の範囲とされ、系統関係はあるもののその産出時代が明確でなかった種類のそれぞれの生息時代が、私たちの研究で明らかになった。

 同じ系統ではないが、これらの層準の化石群集からはGlycymeris属のいくつかの特徴的な種類が産出している。早川橋砂岩泥岩互層部層からはG. izumoensisG. idensisG. cf. cisshuensisなど従来中期中新世〜後期中新世前期に産出報告があったものが、後期中新世後期までの産出が確認された。また、遅沢砂岩部層で特徴的に産出しているG. osozawaensisが鮮新世の曙層群川平層でも産出した。また、Chlamys属では、三ッ石凝灰角礫岩部層と飯富層遅沢砂岩部層からC. miurensisが産し、曙層群川平層からC. satoiが産した。

 上述した化石種の多くが後期中新世から前期鮮新世の、N17帯〜N19帯にかけて西南日本〜中央日本の太平洋側に特徴的に生息していたとされる逗子動物群(小澤・冨田,1992)に含まれる。これまで、逗子動物群の地質時代については後期中新世から前期鮮新世という範囲で、その中を明確に区別されていなかったが、今回明らかになった貝化石の産出層準および生息時代の区別によって、逗子動物群集の実態と逗子動物群集から掛川動物群へと動物群の変遷についての変化プロセスを、明らかにすることができる可能性が生まれた。この問題については、遅沢砂岩部層の貝化石の詳細と逗子動物群を上下2つに区分することを、柴ほか(2014)で検討した。

手打沢不整合の露頭

手打沢不整合 これまで述べてきた、いわゆる静川層群、すなわち身延町中富地区に分布する富士川層群と曙層群の層序、およびそれらに含まれる貝化石群集の特徴について、柴ほか(2013)で公表した。また、その論文の中で、手打沢不整合の問題についても議論した。

すなわち、この地区の富士川層群の地層が上位の地層ほど北へいくにしたがって急激に欠層することから、富士川層群飯富層堆積後から曙層群堆積前にかけての中新世最末期に、この地域の北部が大きく隆起して地層が削剥されたと、私は考えた。そして、大塚(1955)が認めた手打沢不整合は、富士川層群堆積後に陸上浸食を受け、その後の前期鮮新世の海進と隆起により、曙層群の堆積によって形成されたものと結論づけた。

 鮮新統基底に見られる不整合は、掛川地域の相良層群と掛川層群との関係も含め、私自身がこれまで研究してきた、中新世末期の大規模隆起と鮮新世前期の汎世界的な海水準上昇の解明という大きなテーマでもあり、その証拠を静川層群の研究においても明らかにできた。このことは、調査を始めた当初はあまり考えてはいなかったが、これまで述べてきたようにいろいろな成果が集積して、最後に明確になってきたことである。このように、調査の結果がひとつひとつ実を結び、大きな成果となるような研究の醍醐味を、静川層群の調査でも味わうことができた。

これからの課題

 これまで述べてきた、いわゆる静川層群についての研究の成果は、1986年〜1990年の間と2005年〜2009年の間に行った駿河湾団体研究グループの団研調査があって、さらに研究を深められたものである。これらの団研調査に参加された故山田 学くんや廣瀬祐市くんをはじめ多くの学生さん、および研究活動を支援してくださった延原尊美氏や横山謙二氏はじめ多くの方々に感謝する。

 身延町中富地区の地質に関する研究は、これまで述べてきたいわゆる静川層群の地質時代を明らかにした有孔虫化石の研究(柴ほか,2012)と地質層序と貝化石群集を明らかにした研究(柴ほか,2013)、遅沢砂岩部層の貝化石と逗子動物群を議論した研究(柴ほか,2014)で終了したわけではない。もうひとつ大きな研究である、廣瀬くんの修士論文の主要テーマである曙層群のファンデルタの形成と、富士川層群の変形テクトニクスに関する研究をまとめることが残っている。

 またそれ以外に、身延町中富地区から産した貝化石群集をもとに、いわゆる逗子動物群集との対比と逗子動物群自体のさらなる再検討という問題点が残されている。すなわち、逗子動物群集に含まれる宮崎層群下部や相良層群、丹沢山地落合層、大磯層、逗子層の田越川砂礫岩部層、房総半島の千畑礫岩層などから産出する貝化石群集については、それらの産出層準の地質時代が私たちの結論と整合しないところがある。後期中新世〜鮮新世にかけて、西南日本太平洋岸に生息していた海生軟体動物の時間的および空間的分布を明らかにすることは、それらの進化と環境の変遷を明らかにしていくために重要なことである。しかし、特に相良層群と宮崎層群については、貝化石の産出層準などに問題があり、再検討が必要である。

今後は、曙層群のファンデルタの形成の論文の作成と相良層群および宮崎層群の貝化石の産出層準の問題点について、検討していきたいと思っている。

引用文献
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